ユタになるのは宿命

ユタの存在

沖縄や南西諸島では「ユタ」がシャーマンとしての活動としてとても有名です。「ユタ」になるのは修行でもなく、生まれた時から定まっているつまり宿命だと、信じられています。「ユタ」は霊能者なので、凡人に知ることのない霊界のすがたや動きを見通すことできるとされていますが、ユタ信仰は迷信だという観念は沖縄の教育者や知識人の間に一般化しています。そのため「ユタ」の存在は公式の場では、穢らわしい、はしたないと軽蔑したりしますが、家庭を支える女性が一家の代表者としてユタのもとへ赴きます。そのため、家庭の外では「ユタ」の存在など知らぬ存ぜぬといった顔をしている男性でも、家の中ではユタの指示に従って行動する家族の在り方に巻き込まれていきます。

「ユタ」の語源ですが、『琉球史辞典』によると「おしゃべり:ユンタ」または神がかりのときに体が「ユタめく」つまり揺れることから名付けられたのではないかと述べています。職業としての「ユタ」がどのように成立されたのかについては、いろいろな諸説があるため断定されてはいませんが、「神人:カミンチュ」から分化したという考えが多くなっているようです。

ユタとしての能力は科学的な根拠がないということもあって、「ユタ」だといってお金儲けに走るたちが沢山いました。そしてもちろんお金儲けをする人たちは今もいます。その一方で「ユタ」は日常的に人々と神を親しくする存在ということもあって、中央集権や体制強化、近代化を進めたい支配者階層は、「ユタ」の存在を障害や脅威として捉えることが多くありました。そのためその時々の権力側から「ユタの存在は後進的な存在でおまけに世間を惑わす」として、幾度も弾圧や摘発を受けたという歴史があります。

幾度となく弾圧を受けていた歴史的な背景もあって、「ユタ」という称号をあえて隠して、そして他人から「ユタ」と呼ばれることに対し反感を抱くことが多くなっています。そのため「神人:カミンチュ」、「御願者:ウグヮンサー」、「御願を捧げる人:ウグヮンウサギヤー」、「判断:ハンジ」といった神に仕えることを表す名称を好みます。

「イタコ」と「ユタ」の大きな違いは、「イタコ」は霊を降ろして口寄せをしますが、「ユタ」の場合は自分自身を人間と神との介在者と位置づけていることです。そのようなこともあって「ユタ」ではなく「神人:カミンチュ」と呼びます。

ユタになる宿命は自分自身で分かる

ユタになるのは宿命だった。とユタになった人たちは口をそろえて言いますが、では宿命だと考える理由は?!となると、「性高い生まれ」と言う意味の「サーダカンマリ」だという理由になります。「性生まれ高い」という訳される資質には、聖職者になるために備え持たなくてはならない基本資質のことです。基本資質には、神霊・死霊・精霊の霊界と交渉を持って、また巫女として超自然的超越者の意志を聞くことのできるという基本資質になります。

沖縄では幻覚症状を伴った無意識行動を取ることをターリィと言います。そしてその無意識行動の内容が神事(カミグトゥ)、つまり神々に関係がある場合には「カミダーリィ」と言います。夢遊病者的行動に出るのは、神の導きによって夢遊病的な行動を起こすとされるので、無意識行動のターリィ全般をカミダーリィということが多くなっています。そしてこの無意識行動のこのカミダーリィは、精神病者の狂人:フリムン、物狂い:フリトゥーン、狂暴:フラグゥとは明確に区別されています。

カミダーリィが起きると、最初の頃は単なる病気だとしか思えませんが、それがだんだん変わってきます。やがて幻覚の中に現れる「お告げ」のような形でカミまたはカミの使者の「お知らせ:ウシラシ」を受けます。そして、使者から「神事:カミグトゥに入らないとターリィは癒らない」と脅されます。そして、多くのユタたちの告白によると、ユタになれば家庭を犠牲にしてしうこと、そしてユタとして生計を立てられるかどうかの不安から、神事:カミグトゥに入ることを躊躇します。そして「お知らせ:ウシラシ」を受けても、ほとんどの人が「お知らせ:ウシラシ」を無視したり、聞いてないや聞かないふりをして今までどおりのいつもの日常を維持しようと試みます。

ところが、今までどおりのいつもの生活をおくろうと判断して、そのまま生活を送っているとまたまたカミダーリィに襲われます。そして今度はカミまたはカミの使者から、「入巫しないと不幸になる・病気が重くなる」といった今度は威嚇めいた催促:セイジュクを受けるので、心身ともに苦痛はますます差し迫って襲ってきます。そしてこのカミダーリィはユタになるまでに必ず通過して、そして体験しなければならない関門になっていて、、ユタの告白によるとカミダーリィの時には、なぜか必ず原因不明の病気が一緒におきてしまいます。

こうして岐路に立たされ、悩んで悩んで悩んだ末に、行くのはユタの判断:ハンジを求めます。そして巫家:ユタヌヤーへ赴いて、ユタに頼み御願:ウグヮンをして、ユタになる道順の手ほどきを受けます。この道程にあるユタ志願者をナライユタとよばれています。手ほどきを受けるユタの選定は、ナライユタ自身の自発的意思によっておこなわれるので、生徒が自分の望で講師を選ぶように、ナライユタも何人ものユタを渡り歩くことで巫法を覚えていきます。何人ものユタを渡り歩いていくので「イタコ」のように決まった師匠と弟子といった、固定された師弟関係を結ぶことがありません。ナライユタは、必要に応じて巫家へ赴くことでユタの手法を見守ったり、御願のために聖地を巡拝するユタに随伴して、線香:ウコウの供え方、御意趣(グイスという巫儀の導入部)の際の唱え文句を覚えていきます。。

こうして巫家を歴訪して神事に精を出して、各地の聖地へ御願回り:ウグヮンマァーイをするうちに、噂を聞いた近所の家から巫儀をお願いされます。そして巫儀を行って良い評判が取れれば、次第にお客さんが増えて知らず知らずのうちに一人前のユタになっています。ユタとして独り立ちした状態は、道あけと呼ばれますが、カミダーリィ状態にあった人が、必ず道あけするとは限りません。

道あけは、霊的存在から賦与された能力を人々の救済のために具体的に行使できるようになったことを意味していますが、道明けに至るまでの道のりが容易ではないからです。カミダーリィにありながら、なかなか道あけできない状態になっていることを「サバキキレナイ」状態と呼んでいますが、こうした道あけできない人々は身内にユタであったり霊高い:セジダカイ人を持たないことが多くなっています。

ユタとして生きるのは厳しい人生

ナライユタから道明けをして、ようやくユタとなった人たちの多くは、それから後の生涯で不遇な経験をしています。家庭内の不和はもとより、結婚の失敗、おまけに数度の離婚などの経験があるほかにも、医者にかかっても癒らないたちの悪い頭痛や喘息そして神経痛などの発症をあげています。

離婚によって不眠そして夢などに悩まされて、ユタの判断:ハンジで異常行動に拍車がかかります。それに加えて、沖縄特有の強い結びつきから、親族や知人からサーダカンマリだと刻印を押されて「仕方がないからユタにならざるを得ない」と思っているカミダーリィ人々が多数いることも事実としてあげらえています。